しかはまをしらべる
もくじ
1.鹿浜とはどんなところだったのでしょうか。
 (1)鹿浜は、低くてじめじめした土地
 (2)鹿浜は、農業がさかんだった土地
 
2.農業のうつりかわりと見沼代用水
 (1)新田開発と用水
 (2)見沼用水から見沼代用水へ
 (3)江戸(東京)の米ぐら
 (4)見沼代用水と水運
 
3.かわりゆく鹿浜の産業
 (1)消えゆく農業
 (2)仕事をする人、戸数の広がり
 (3)学区域の工場
 (4)学区域の店
 (5)これからの学区域
 (6)学校のまわりのうつりかわり
 
4.鹿浜の古いものしらべ
 
5.交通の変化とトラックターミナル
 学区域絵地図
 
 
 

 

1.鹿浜とはどんなところだったのでしょうか

 (1)鹿浜は、低くてじめじめした土地

 東京の地図を見てみましょう。西側は山地になっていて、東側は全体に平地で川が多く、海の高さとあまりかわらない低い土地であることがわかります。

 わたしたちの住んでいる足立区は東京の北東部にあり、隅田川(すみだがわ)、荒川(あらかわ)、綾瀬川(あやせがわ)、中川(なかがわ)、毛長川(けなががわ)、芝川(しばかわ)などたくさんの川にかこまれています。

 鹿浜は、この足立区の西部にある地域です。

 @大むかしのようす

 北鹿浜小学校が建てられるとき(1971年)、地下16m以上も深くあなをほり、土地の性質を調べました。すると。砂でできた石にまじって貝の化石が出てきました。このことから、人間がたん生する前の大むかしは、きっと、海の底だったのだろうと想像できます。今の関東平野の大部分が、大むかしは海の底だったといわれていますが、鹿浜も同じだったわけです。この海の底がもり上がり、陸地になったと考えられています。

 このあたりに人が住むようになったのは、およそ2000年前と考えられています。旧江北橋近くの“てんぐの鼻”といわれる所からは、そのころの人が使ったと思われる土器が出土しています。

 A江戸時代のようす

 江戸時代のこの地方の生活を記録した『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』には、鹿浜は、シシハマとよばれていました。シシというのが、イノシシのことなのか、シカのことなのかは、はっきりしませんが、これらの鹿が出るような浜(浜辺・水辺)であったことがわかります。また、まわりにも、加賀皿・上田・北・の内など水に関係のある地名がたくさん残っています。

 さらに、水害に苦しめられた記録が数多く残されていることからも、鹿浜あたりは、土地の低い、じめじめしたところだったことが想像できます。

 (2)鹿浜は、農業がさかんだった土地

 荒川ができる前までは、鹿浜と地続きだった「鹿浜野新田(しかはまやしんでん)」とよばれたところがあります。新田とは、新しく土地をきりひらいて、新しい田んぼをつくることで、江戸時代にすすめられました。

 また、「糀屋(こうじや)」という地名もあります。「こうじ」は、酒やみそ、しょうゆを作るときにつかうもので、米や大豆(だいず)などから作られます。生活に必要な食品が、近くでとれる作物からつくられていたことがわかります。

 このことからも、鹿浜は、田んぼや畑がつくられていた農村であったことがわかります。明治時代(今から100年ほど前)には、鹿浜や足立の農村は、「江戸の米倉(こめぐら)」とよばれるくらいに、農業がさかんなところでした。

2.農業のうつりかわりと見沼代用水

 (1)新田開発と用水

 鹿浜が江北のあたりで一番大きい村といわれるほど発達したのは、江戸時代になってからでした。そのきっかけになったのは、新田開発
と田に必要な用水をひいたことからでした。

 今から400年前の江戸時代になって将軍徳川家康の命令をうけた伊奈忠治(いな ただはる)という人は、利根川(とねがわ)、荒川、綾瀬川などの川の流れをよくして大水になるのをふせいだり川の水を利用したりという工事に力を入れ、新しく田を開くのに必要な用水をつくっていきました。

 そのころ、今の鹿浜や、伊興(いこう)などの畑は、水が不足して思うように作物がとれませんでした。伊奈氏は、1629年に今の埼玉県さいたま市の近くにある「見沼」という沼をつかい、八丁(やく900m)にもおよぶ土手(八丁堤)をきずいて、もっとたくさんの水がたまる「ため池」をつくりました。これが、「見沼ため井(池)」です。この沼から水をひき、用水として下流に流しました。このおかげで、鹿浜や伊興などでも、田んぼがつくられるようになりました。

 しかし、ため池の深さは1mくらいで浅く、日でりが続くと水がひあがってしまい、「水あらそい」がたえませんでした。

 (2)見沼用水から見沼代用水へ

 8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の世の中になりました。幕府(ばくふ:そのころの政府)は、より多くの年貢(ねんぐ)をとって、赤字をへらすために、新田開発をさかんにすすめました。

 鹿浜村をはじめまわりの村々では、見沼用水にかわる、水のほうふな新しい用水が必要でした。幕府は、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)に命令して、新しい用水をつくる工事にとりかかりました。

 利根川から用水がうまく流れるように土地の高さをはかりながら、水の流れる道すじをきめていきました。

 見沼はうめたてて、広い新田にする計画も立てました。秋から、多くの農民の力をかりて、よく年の春までにできあがりました。この用水は、見沼用水の代わりにできたので、見沼代用水とよばれました。用水ができてからは、水田へは、たくさんの水が流れるようになり、新しい田もどんどんつくられるようになりました。

 鹿浜村の新田開発につくした農民の子孫は、鈴木、高橋、大谷家などで、今でも旧家として残っています。

 水田でつかった水をすてるためにつくった川が「芝川」で、水の流れが、利根川→見沼代用水→水田→芝川→荒川へとうまく流れるようになりました。

 (3)江戸(東京)の米どころ

 足立区は、千住の宿場を一歩出れば、農村がところどころにあるだけの土地でしたが、そのころ、人口100万人をこす江戸に近かったこと、幕府の直轄領(ちょっかつりょう:直接おさめている土地)だったことなどで、長い間、江戸の人たちの穀倉地帯(こくそうちたい:米や麦などを多く生産する地域)として、大切な役わりをしてきました。

 明治に入ってからも、米作り中心の農業で売る米の量も多く、足立区は「東京府下の米どころ」として有名でした。

 大正時代、鹿浜は、宅地が全体の10分の1、田や畑が10分の7で、残りはほぼ沼地でした。

 このように、江戸、明治、大正、昭和時代と、このあたりも見沼代用水の新領堀(しんりょうぼり)を流れる水を利用して、米作りがさかんに行われてきました。

 また、明治のおわりごろから大正時代になると東京の産業も発達し人口もますますふえ、新せんな野菜がたくさん必要になり、小松菜(こまつな)、みつば、大根などの野菜作りもさかんになりました。

 その後、工場や住宅の進出とともに米作りより野菜作り中心の農業にかわっていきました。

 (4)見沼代用水と水運

 水田用水としての見沼代用水ができて3年後、見沼代用水から芝川を下り、船で米や野菜などの農作物を江戸(東京)へ運んだり、そのぎゃくに、江戸から生活に必要なものを水路に近い村に運ぶこともできるようになり、見沼代用水は近くの村々になくてはならないものになりました。

 鹿浜村へは、毛長川をこえ「かけどい」を通り、2つに分かれたうちの一つが神領堀として流れてきました。その堀は、舎人(とねり)→入谷(いりや)→加賀皿沼→鹿浜→江北→本木の方へと流れていきました。

 こうした用水も、住宅がふえ、生活排水(家で使われて、いらなくなった水)でよごれたり、新しい道路ができて切断されたりして、使われなくなってしまいました。

 今、コンクリートの板がかぶされているところ(鹿浜中の南がわ、西がわ)は、見沼代用水のあとです。

 そして、北鹿浜小の近くにあるバス停の「鹿浜用水」というのも、見沼代用水のなごりなのです。

3.かわりゆく鹿浜の産業

 (1)きえゆく農業

 わたしたちの北鹿浜小学校の建てられる前は、加賀の団地のあたりに水田もあり畑もまだたくさんありました。みなさんのおじいさんたちが働いていたころです。

 ところが、第二次世界大戦後、人口がふえ、住宅や店が必要となり、区画整理の事業(土地をくぎり、道路などをつくる)が始まりました。田畑がつぶされ、団地ができ、学校が建てられ、住宅や店がふえました。

 昭和49年には、とうとう学区域にあった加賀の水田もなくなり、米は作らなくなりました。

 (2)仕事をする人、戸数の広がり

 住宅とともに店や工場がふえました。
左のグラフを見てみましょう。昭和44年はおよそ500人、昭和50年は1500人、昭和53年から急にふえて2200人となり、今ではさらにふえています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1992年11月発行  
  「しかはまをしらべる」より転載
(3)学区域の工場
 年々工場もふえてきました。
 左のグラフを見てみましょう。
 学区域の中では、鉄製品、きかいの部品、家具をつくる工場が多く見られます。
 学区域の工場のグラフと、「わたしたちの足立」にのっている足立区全体のグラフとをくらべましょう。
(4)学区域の
 昭和47年ころまでは、学区域には店も少なかったのに、50年ころから急にふえています。
 工場のふえかたとくらべてみましょう。
 学区域の仕事で、特に多くなってきたのが、運送業です。
 なぜでしょうか。

 この他に、美容院などのサービス業や家を建てる建築業もふえています。
(5)これからの学区域
学区域の道路も整備され、下水道もでき、空き地にマンションや、一戸建ての住宅がふえてきました。
それとともに、仕事をする人、戸数もますますふえていくことでしょう。
(6)学校のまわりのうつりかわり
昭和22年
昭和31年
昭和49年
4.鹿浜の古いものしらべ
@ 新田のてんぐの鼻
 隅田川が荒川の方へはいりこむようにまがっているあたりが「てんぐの鼻」とよばれています。この地域は、足立区の北部・伊興地区とならんではやくからひらけていました。このあたりからは、大むかし(古墳時代)の人々が使っていたいろいろな土器がほり出されています。
A 荒川五色桜
 明治のはじめからさかえていた荒川堤の桜で、アメリカのワシントン・ポトマック河畔の桜の親元です。白、うす紅、こいもも色、ほんのり黒みがかった色、むらさき色といった八重桜や一重桜が五色にさききそったといわれています。荒川放水路の工事のため切られたり、戦争中のまきとして切られたりして、今は、その桜並木はありません。もう一度、五色桜を育てようと区は努力しています。江北二丁目の堤防沿いに「五色堤公園」と、そこに「名勝 荒川堤桜」の記念の柱があります。
B 氷川神社
 
 鹿浜には島地区と糀屋地区とに氷川神社が、鹿浜西小学校の北側近くにあります。糀屋の氷川神社は、日光東照宮を建てた藤原久次によって寛永十八年(1640年)に建てられました。島の氷川神社は、今から300年前の江戸時代に建てられ、元禄四年(1692年)社殿が現在の所に新しく建てられました。江北地区の七つの村(今の加賀、皿沼あたりから谷在家、小台あたり)を守る神様をまつり、「夏越しのはらいの輪くぐり」などの行事をしています。
C 宝蔵寺
 交通公園の南にあります。お寺にある仏像は、今からおよそ600年も前につくられたものだといわれています。また、この寺は1272年から1287年の間に建てられたもので、鹿浜村の中心の寺として人々と深いつながりをもってきました。はじめは、荒川の土手の外側にたてられました。しかし、たびたび水害にあったため、今の場所にうつされました。鹿浜小学校ができるまでは、学校のかわりをしていました。
D 加賀稲荷神社
 トーヨーサッシから北に少しいった加賀中学校のそばにあります。稲荷というのは、もともと穀物(こくもつ)の神様ですが、病気をなおし、しあわせをもたらす神様として、江戸時代から人々の信仰を集めていました。毎年9月17日にお祭りをします。浅香という家の氏神様でしたが、今から160年ほど前に村の守り神としてまつることになったといわれています。
E 鹿浜のししまい
 このししまいは、江戸時代のはじめごろから伝えられたものです。足立区の無形文化財になっています。1ぴきの朱色のししと2ひきの黒じしが、笛やたいこに合わせておどります。世の中が平和で楽しくくらせるよろこびをあらわすおどりだそうです。正式におどると4時間以上もかかり、たいへん動きのはげしいおどりです。おどれる人がいなくなって昭和37年からできなくなってしまいました。それから7年後、鹿浜中学校の生徒たちが“農村・郷土の文化を守ろう”ということで練習をかさねて昭和44年から復活しました。今では、地域に保存会もでき、毎年9月15日の秋まつりの日、島、糀屋、古内、東の4つの町会にある神社の境内でまわり番でおどられています。
F 江川塾
 明治時代に、塾として江川彦市という人が、書道やれいぎさほうを教えていました。社会科資料室にある道具は江川さんからいただきました。
5.交通の変化とトラックターミナル
@ 鹿浜地区の交通の変化
 農家の多かった北鹿浜小学校のまわりの交通は、むかしは、もっぱら歩きでした。千住には土手の上を8キロメートル(2時間)ほど歩いて行きました。西新井までは4キロメートル(1時間)です。王子に行くには、荒川の「渡し」船(わたしぶね)で川をわたり、1時間半ほどかかりました。
 昭和30年(1955年)にバス通りができ、川口からのバスが通るようになってからは人口もふえてきました。
 昭和44年(1969年)に環状七号線ができ、たいへん便利になり、田んぼだったところに家がたち、沼地もだんだんへっていきました。区画整理がはじまりました。
 昭和51年(1976年)に舎人流通センターが完成し、そこに通じる道路もつぎつぎにでき、今の鹿浜地区のすがたに近づきました。鹿浜地区の交通は舎人流通センターともふかくむすびついています。
 さらに、平成元年(1989年)には、首都高速道路が完成し、東北自動車道とつながり、ますます交通量がふえつづけています。
A 舎人流通センター(足立トラックターミナル)
 トラックターミナルとは、「トラックで荷物を運ぶせんもんの駅」と考えてもいいでしょう。
 足立トラックターミナルは、どのように利用されているか、下の図を見てよく考えましょう。
国道四号線(日光街道) 
 昭和3年(1928年)東北方面への幹線道路として開通しました。
環状七号線
 昭和44年(1969年)大田区から江戸川区を結び、足立区を東西に通る産業道路として開通しました。
放射十一号線(尾久橋通り)
 昭和52年(1977年)国道四号線の交通じゅうたいをへらすためにできました。
◆首都高速道路・葛飾川口線
 昭和62年(1987年)に開通し、葛飾区小菅付近から荒川に沿い東北自動車道につながります。
補助100号線(尾竹橋通り)
 平成元年(1989年)に開通し、尾竹橋から竹ノ塚、埼玉への道路です。
6.北鹿浜小学校のうつりかわり
沼地に校舎の建設
 1872年(昭和47年)鹿浜の沼地だったところに、長いコンクリートのくいが打ちこまれ、校舎の建設がはじまりました。鹿浜4丁目にある鹿浜小学校の児童数がふえつづけ、また、そのころ鹿浜5丁目に都営団地が建設され、ますます児童がふえるために、新しい学校をつくることになったのです。
第一回入学式 当日の朝
はじめての入学式(昭和48年4月6日)
体育館の建設
6.北鹿浜小学校のうつりかわり
北鹿浜のうつりかわり
土地利用図
あ と が き
 この「しかはまをしらべる」は、北鹿浜小学校創立20周年を記念て作られました。
 田んぼや沼地だったこの地に、人々の願いと努力で、20年前に学校が生まれたのです。そして、この鹿浜をふるさととして育っていくみなさんが「伝統を受けつぎ、さらに発展させていってほしい」と地域の人々は強く願っているのです。
 そのために、鹿浜の地域をみなさんが深く知ることがとても大切です。年々、大きく変わっていく町のようすを調べ、考える手がかりに、この本を活用してほしいと願っています。
1992年11月
  「しかはまをしらべる」編集委員会
※ 今回、CD-ROMに収録するにあたり、一部加筆や、構成の変更を行いました。
  2002年11月
     創立30周年記念誌委員会
今のすがたに
 その後、AV教室の完成で、ビデオ放送ができるようになったり、校舎のぬりかえなどがあったりして、緑が豊かな今の北鹿浜小学校のすがたになりました。
 1992年に二十周年をむかえました。9月から第二土曜日が休日という学校週五日制がはじまりました。
 一人一人の児童が個性を発揮して、たくましく生きるすがたをめざし、新たな出発を決意しました。
皿沼小の独立と開校十周年
 1982年(昭和57年)に皿沼小学校ができ、加賀二丁目の児童225名が皿沼小にうつりました。
 また、この年の11月には開校十周年のお祝いの会を開きました。
児童数千三百名
 その後も児童数はどんどんふえ、1981年(昭和56年)には、やく1300名(33学級)にもなり、ピークをむかえます。教室がたりず、プレハブ校舎で学習する学年もでました。
プールの建設
 1976年(昭和51年)7月9日、プールができました。それまでは、鹿浜小学校や鹿浜西小学校のプールをかりて水泳の授業をうけていました。二時間の授業で往復に一時間かかり、プールに入れるのは30分ほどでした。そこで、PTAのみなさんが中心になって、足立区議会へ、プール建設のせいがん書を出して、つくることになったのです。
体育館の建設
 1974年(昭和49年)3月に、まちにまった体育館ができました。ふえつづける児童数にあわせて、校舎の増設もされました。
校章・校旗をつくる
 すべてが新しい学校でしたので、7月2日に校章が、9月17日に校歌がきまりました。
 校章は、当時6年生だった人が考えたものをもとにして、作りました。ここで、校章についてせつめいします。まわりの形は、かえでです。かえでは、四季におうじて色がかわり、すばらしい美しさを見せてくれます。北鹿の子どもも個性豊かで美しくあってほしいと願い、かえでの葉を選んだのです。四方にのびる葉の全体のすがたは、どこまでも発展していくようすをあらわしています。校章の中に星が二つと一本の線があります。上の星は北きょく星で、卒業したあとの大きな目標をあらわし、一本の線で北鹿という字とむすんであるのは、北鹿の子らが、その目標に向かって生きる人間になってほしいという願いがこめられています。下の星は、北鹿浜小学校がいつまでも光りかがやく学校であることをあらわしています。
 その年の11月16日、開校記念式典が行われ、11月2日を開校記念日としました。
学校の誕生(児童数700名)
 1973年(昭和48年)4月1日、わたしたちの北鹿浜小学校は、鹿浜小学校から分かれて誕生しました。児童数743名、19学級、先生の数26名、主事さん14名のスタートでした。
 その時は、体育館もなく、校庭も整備されていませんでした。前の日までの雨で、どろだらけの校庭でどうなることかと、先生方はたいへん心配したそうですが、4月6日、快晴のうちに、始業式・入学式をりっぱに行うことができました。